北海道の商工会議所史HISTORY

第2章商業会議所に改組

~国運を反映した法的世論機関として~

2-1「商業会議所条例」に基づく商業会議所として〔明治23年9月11日法律第81号公布・施行〕

 この条例は、初めて我が国の商業会議所に法的基礎を与えて、その性格及び在り方を規定し、かつ、特別の法人格を認めて独立の存在とし、以来、永く我が国の商業会議所を発展の軌道に乗せた点で深い意義を有した。
 まことに、この明治23年こそは商法会議所の経験の土台の上に、本格的な内容外観をもった商業会議所を建設した画期的な年であったといえよう。
 この頃、明治22年2月には「帝国憲法」が発布され、地方自治制の確立とともに近代国家としての政治、行政機構は着々と整備され、明治23年4月には商業の基本法典である「商法」が公布され、その施行も迫っていた。
 しかし、一方、産業経済界は、大凶作、貿易赤字による不況、金融逼迫と相俟ってデフレーションが進行し、我が国最初の資本主義的恐慌を迎えた時代であった。
 こうした情勢下にあって、経済の安定を取り戻すため、商工業者の一致団結と協力行為が最も必要となり、行政機構の公認団体ではあったが性格上私設の団体で結束力、実行力の弱い商法会議所の組織機構の強化拡充が急務とされるに至った。
 ここにおいて、仏独系商業会議所の制度を範とする代表議員をもって組織する議員制法的団体としての商業会議所の創設を目指した「商業会議所条例」が明治23年9月11日、法律第81号をもって公布・施行された。
 この条例により、法的に裏付けられた商業会議所は地域経済団体としての組織も強化され、財政的な基礎も確保されるに及び、全国各地で新しく商業会議所の設立が相次ぎ、また、商法会議所は一斉に商業会議所へと組織変更を行うに至った。
 この「商業会議所条例」による議員の選挙権、被選挙権の資格は、所得税を納付する商人と定められていたため、当時、所得税を免除されていた北海道では商業会議所の設立は不可能であったが、明治28年7月農商務省令によって、北海道についての資格を所得税に加え地方税3円以上納付するものと定められたことにより商業会議所の設立が可能となった。
 北海道においても、この条例と省令に基づいて、直ちに明治28年9月29日函館、明治28年12月2日小樽に北海道で最初の商業会議所が榎本武揚農商務大臣の認可を得て設立した。当時の北海道経済の中心地は漁業を基軸産業として発展した函館、小樽であったことがうかがわれる。なお、任意、全国組織の連合会として明治25年9月25日全国商業会議所連合会が創設した。
 この「商業会議所条例」によって、我が国の会議所制度は、これまで英米系統の流れを汲んで任意団体として組織運営されてきた会議所制度から一転して法律によって制定される団体として、仏独系統の会議所制度へと画期的な転換を成し遂げた。

欧米商業会議所制度・・・2つの型〔明治23年9月11日法律第81号公布・施行〕

  1. ①英米系統の商業会議所

    私法上の商業会議所として、イギリス植民地時代のニューヨーク商業会議所が1768年に、続いてイギリス本国のグラスコ商業会議所が1783年に設立され、いわゆる英米系統の商業会議所の源流を成したもので、今日の英米系統の会議所は、任意会員組織の私的団体としての商業会議所として、その経費は主として会費によって賄っていた。

  2. ②仏独 (欧州大陸)系統の商業会議所

    公法上の商業会議所として、フランスのマルセーユ商業会議所(最初は任意団体)が1599年に、続いてダンケルク商業会議所が1700年に設立され、いわゆる仏独系統の商業会議所の源流を成したもので、今日の仏独系統の会議所は、議員組織選挙制度の公法団体としての商業会議所として、その経費は営業税に対する付加税(強制徴収制)によって賄っていた。

  3. ③我が国の商業会議所

    性格、組織、事業の模範を欧米諸国にとって成長したが、英・米系統の商業会議所制度と仏独系統の商業会議所制度の間で、時運に応じて大きく揺れ動き今日に至っているものである。

2-2「商業会議所法」に基づく商業会議所として〔明治35年3月25日法律第31号公布・同年7月1日施行〕

明治27、28年の日清戦争の後、海外貿易の発展、近代産業の移植育成等、我が国産業経済の飛躍発展は極めて急速度であった。まさに、我が国資本主義発展の第一段階に差し掛かり、時運の進展に沿おうとする会議所の使命はますます大きくなった。
一方、明治23年制定の「商業会議所条例」には種々の不備欠陥がみられ、明治28年3月に一部改正をみたものの、会議所の実際の運営に適しない点が少なくなく 、また、条例規定そのものが経済界の急速な発展についていけなかった点が指摘された。
政府も世論の動向に応え、新商法施行の関係を考慮して、新たに商業会議所法案を作って帝国議会に提出、明治35年3月25日、法律第31号をもって「商業会議所法」を公布、同年7月1日から施行された。
この「商業会議所法」は、条例によって基礎を築き、その上に建設された商業会議所の組織機能の在り方についてさらに整備改善したものであって、会議所の組織がより精細に規定されたほか、特に経費(賦課金)に対する強制徴収制度を認め、財政基盤が強化されるに及び、全国各地で新しく商業会議所の設立が相次いだ。
北海道においても、この法律に基づいて明治39年10月9日札幌、大正8年8月6日旭川、大正13年11月6日室蘭、同年11月17日釧路に夫々商業会議所が設立した。
この新法は、昭和2年4月5日法律第49号公布、昭和3年1月1日施行の「商工会議所法」まで実に26年間にわたり、商業会議所の基本体制となったもので、会議所制度としては長期安定した時期であったといえる。

「商業会議所法」に基づく経費(賦課金)の強制徴収権の剥奪と復活

日露戦争後の明治39年から42年にわたり、全国の商業会議所は打って一丸とした全国商業会議所連合会の所得税、営業税の改廃運動は極めて熱烈強硬であった。
時の桂内閣は、それが不当な政治運動であり、いたずらに政府の政策に反対する逸脱行為であるとの口実のもとに、「商業会議所法」を一部改正し(明治42年7月法律第43号)、その経費の強制徴収権を剥奪してその弱体化を図った。
この不当な措置によって、商業会議所が大きな打撃を受けたことは言うまでもないが、全国商業会議所連合会はこれに屈せず、引き続き大正元年より3年間にわたり財政及び税制の整理並びに営業税の廃止に関する建議要望を激烈に継続し、あわせて経費の強制徴収権の復活を中心に、「商業会議所法」の改正に関する建議活動を精力的に行ったところ、政府当局にも反省の色が現われ、時の大隈内閣の手によって再び「商業会議所法」を一部改正し(大正5年4月法律第39号)、強制徴収権を復活、この問題の解決をみた。
以来、30有余年(商工会議所に移行後も含め)にわたりこの制度は活発な会議所活動の財政基盤を支えた。